農林1号(のうりんいちごう)

地方番号:北陸4号
育成開始年:大正11年
農林登録番号:水稲農林1号
農林登録年:昭和6年
育成:新潟県農事試験場

 

水稲で初めて農林登録をされた第1号品種。新潟県農事試験場で並河成資、鉢蝋清香により育成された寒冷地用水稲。現代では考えられないが、当時の北陸や東北の米は「鶏(とり)またぎ」とさえ言われるほど食味が悪く、台湾米に圧されていた。そこで早生品種で食味が良い上に、耐冷性、収量性、耐倒伏性をもつ「農林1号」が開発され、急速に普及した。特に第二次大戦後の食糧危機の時代の食糧生産を支えた。戦後の食糧難時代に北越地方から届く早場米「農林1号」は飢餓と隣りあわせだった国民を救い、その名は救世主として広まり、教科書にも載るほどであった。

 

育成者の並河は、農林1号が戦後脚光を浴びることになる前に、昭和12年、家族を残し41歳で自ら命を絶った。戦前の農業研究の抑圧的な雰囲気が、死に追いやったといわれる。昭和24年、並河の残された家族のあまりの貧窮ぶりに、旧友たちが北陸・長野の農家宛にビラを配った。「故並河成資氏のために、あなた方の水稲農林1号の一握りを」。反響は大きく、「恩人の遺族を救え」の声は、新聞やラジオを通じ全国民に伝えられた。農村はもちろん都会からも拠金が集まり、491万円に達したという。
新潟県長岡市にある新潟県農業総合研究所には1951年に並河の顕彰胸像が建てられている。そこには「農林1号」などの農作物種子が貯蔵され、『開封2951年・同11951年。指定の年次までの保存を乞う』とされている。途方も無く遠い未来ではあるが、品種改良に携わる人の思いが込められている。

 

またもう一人の鉢蝋は圃場管理や選抜の実務を行い、「農林1号」を世に出した昭和6年の育成試験成績書でも並河と鉢蝋が連名になっている。だがその鉢蝋も農林1号及びその育成者に全国から賞賛が寄せられた時には、この世に亡かった。「農林1号」の育成後、しばらくして病のため退職し、 昭和17年郷里の富山県平村(現:南砺市)で亡くなっている。富山県南砺市のたいら郷土館前には鉢蝋清香彰徳碑が建立され、館内には遺品や「農林1号」の資料が展示され、鉢蝋を偲ぶことができる。

 

農作物の品種改良でこれ程の敬意を払われるということは、豊かになった現代では想像し難い。当時における「農林1号」の存在の大きさが現れているのだろう。「農林1号」が農林登録されてから80年経つが、「コシヒカリ」を初めとして多くの品種に血統が引き継がれ、同時にその功績も受け継がれている。現在でも新潟県で銘柄設定されている。

 

nourin

お米あれこれ目次に戻る

市民農園の利用者 募集中!

申込み締切3月31日(消印有効)
詳しくは、こちら⇒

サイトマップ